戦国最大の防御線だった 秀吉の鳥取攻め

2010年05月11日

 羽柴(豊臣)秀吉が鳥取城を兵糧攻めにした際、鳥取市の本陣山一帯に築いた陣城(じんじろ)(城攻めのために造った城)は、三つの陣城を空堀でつないだ全長750メートルという戦国時代には例のない壮大な防御ラインを持っていたことが、鳥取市教委の調査で10日までに裏付けられた。“攻める城”として最高のもので戦の緊迫感を生々しく伝えている。

秀吉本陣の西側に陣城(1)(2)(3)を置いて、長さが数十メートルから100メートルほどあるいくつかの大規模な空堀でつなぎ、総延長750メートルにも及ぶ“最終防御ライン”を築いた。陣城(1)は秀吉の弟・秀長の陣とされる。本陣の周辺に七つの陣城が確認された=「鳥取城調査研究年報第3号」掲載の図をもとに作図

 同市教委文化財課は、2007年度から本陣山近辺の陣城群を調査。成果を「鳥取城調査研究年報第3号」にまとめた。

 それによると、本陣山の山頂にある秀吉本陣は土塁と空堀で囲まれ東西、南北それぞれ58メートル。空堀の幅は5〜7・5メートル、土塁の高さは空堀の底から2〜4・5メートルある大きな造りだった。

 鳥取城側(秀吉本陣の西側)に大規模な陣城を3カ所設け、郭(くるわ)(陣地)や土塁、空堀などを築いた。

 3カ所の陣城をつなぐ空堀の総延長は680メートル、郭の部分を加えると750メートルにも及ぶ頑強な防御ラインを構築。中でも秀吉の弟・秀長の陣と伝わる陣城には長さ98〜112メートル、幅5〜9メートル、深さ3〜5メートルもある長大な空堀が三重になっていた。

 長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)の中井均館長は「陣城と陣城を空堀で結んで包囲したのは例がなく、一つの城を囲い込む陣城では戦国期最大の規模。アリのはい出るすきもないよう遮断し、絶対に失敗は許されないという危機感がある。遺構の保存状態も素晴らしい」と高く評価。

 戦国時代の城のほとんどは土を掘って造った空堀や郭、土塁の「土造りの城」。江戸時代以降の石垣や天守閣がある「石造りの城」とは異なる。秀吉が築いた陣城は、鳥取城攻めの9年後の小田原城攻めでは石垣造りとなる。

 中井館長は「小田原城攻めは勝つことが初めから分かっている戦い。天下人・秀吉の権威を見せるための陣城で戦場の危機感がない。本陣山の陣城は、土造りの攻めるための城としてピークに達したものだ」と話している。

 

鳥取城攻め
 織田信長の部将・羽柴秀吉は、1580年と81年の2回、大軍で鳥取城を攻めた。本陣山に本陣を置き、毛利氏の部将・吉川経家が守る鳥取城を包囲。城の周囲12キロにわたって陣城、空堀、土塁などを築き、食料が城に入るのを断つ兵糧攻めで落城させた。平野部の陣城は開発で壊され現存しないが、本陣山周辺の山中には良好な状態で残る。



出展 日本海新聞 Web http://www.nnn.co.jp/news/100511/20100511028.html